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対話と平和を愛するサヨクのはずなのに、自分と意見が違う相手にはこの罵倒具合。なぜなのか?
どんな前提でなぜなのかーと言ってるのか知らんけど相手が全体主義者だったら異なる意見の尊重は成立する余地がないんじゃないの
一方、人権派弁護士を200人以上拘束する [jiji.com] など、現在の日本と比べると、より戦前の日本(≒全体主義国家)に近い中華人民共和国も、国家行事では「反日・反ファシズム戦争勝利70週年記念」等と銘打って国政の正当化に利用しています。「反全体主義」というキャッチフレーズも、使い方をよく考えないと逆に国家権力によるプロパガンダに利用される危険があるのではないかと。 ましてや、『相手が○○だから異なる意見の尊重は成立する余地がない』と短絡的に言ってしまうと、逆に異論・反論を弾圧する道具に利用される危険が大きいのではないかと…。
一酸化二水素だって「使い方をよく考えないと危険」だし、家庭や学校や会社や公共インフラや書籍も「弾圧する道具に利用される危険が大きい」わけだが。その存在、概念自体が弾圧と不可分な全体主義は無条件でぶっ叩いても全体主義者以外は誰も損しない。
相手が「無条件でぶっ叩いてよい全体主義者」だと誰がどうやって「審判」するのかが問題なんです。基準が恣意的だと、「○○は全体主義国家C国の提灯記事ばかり書いている全体主義者だ。即刻排除すべきだ。」とか、逆に「△△は(C国の唱える)『歴史の反省』を行わない全体主義者だ。即刻排除すべきだ。」といった異論を排除する理屈がまかり通ってしまい、最終的には言論弾圧の道具になったり、魔女狩り状態になってしまう恐れも大きいのではないでしょうか。#逆に言うと、全体主義者の基準が恣意的だと、「ネトウヨが朝日新聞や宮崎駿氏を叩いているのは、中国の全体主義に反対しているからだ」という理屈も成り立ってしまうのです…。#たとえると、「堤防を大きく破損させ、将来洪水による被害者を出しかねない危険な行為」というべきでしょうか…無論、「○○が全体主義国家C国の提灯記事ばかり書いている」ことや、「△△が『歴史の反省』を行わない」と言う問題点について批判すること自体は必要(重要)です。しかし、それは相手の意見を聞いた上での「議論」として行うべきです。そもそも、国政・民主主義において議論や意見の多様性が重要だと言われるのは、1.異なった立場の人間がそれぞれの立場から論拠を挙げて主張を述べる2.主張の食い違っている部分で、更に論拠を挙げて議論を闘わせる3.「単独の立場からの主張」に含まれていた誤りを正すことが出来る4.その結果物事の正しい理解が進むというメカニズムが進むからでしょう(要は裁判やある意味科学の手法に似たようなものではないかと)。だからこそ、私たちもこうして議論しているのではないでしょうか?「○○主義者」というレッテルを貼って意見そのものを圧殺する手法は、このような議論・民主主義の「検証メカニズム」を停止させてしまい、間違った主張が流布する危険を招いてしまうだけでなく、「言論統制主義者」に対する反論能力も落としてしまう為、「民主主義の緩慢な自殺」を招きかねない危険な手法なのではないかと考えます。#ナチス主義の様に、「特定民族の虐殺」(と「民主主義制度の廃止」)を唱えている団体・思想は流石に発禁する必要があるかも知れませんが、そういった場合も飽くまで「必要悪」と考え、必要最小限の規制に済ますのが望ましいのではないかと考えます。##そもそも、そういった「危険思想」を取り締まるのは、日本で言うと公安部のような「思想警察」の仕事になるわけですし、この点でも過大な規制拡大は危険であると考えられます。
愚にも付かぬ詭弁をベラベラと個人主義、自由主義、立憲主義、国民主権に基く憲法に対して攻撃を仕掛けた者が全体主義者だ憲法を遵守する公人の義務を放棄しあまつさえ攻撃まで仕掛けた者には極刑あるのみ
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犯人はmoriwaka -- Anonymous Coward
ネトウヨ文化を日本の文化とかいわれてもな (スコア:1)
こんな日本の恥をさも日本の文化とかいって紹介するんじゃねえよ
いっそネトウヨだけ戦場に送れよ、死ねば死ぬほどお国のためになるとか画期的じゃないか
Re: (スコア:0)
対話と平和を愛するサヨクのはずなのに、自分と意見が違う相手にはこの罵倒具合。
なぜなのか?
Re: (スコア:0)
どんな前提でなぜなのかーと言ってるのか知らんけど
相手が全体主義者だったら異なる意見の尊重は成立する余地がないんじゃないの
Re: (スコア:0)
一方、人権派弁護士を200人以上拘束する [jiji.com] など、現在の日本と比べると、より戦前の日本(≒全体主義国家)に近い中華人民共和国も、国家行事では「反日・反ファシズム戦争勝利70週年記念」等と銘打って国政の正当化に利用しています。「反全体主義」というキャッチフレーズも、使い方をよく考えないと逆に国家権力によるプロパガンダに利用される危険があるのではないかと。
ましてや、『相手が○○だから異なる意見の尊重は成立する余地がない』と短絡的に言ってしまうと、逆に異論・反論を弾圧する道具に利用される危険が大きいのではないかと…。
Re: (スコア:0)
一酸化二水素だって「使い方をよく考えないと危険」だし、家庭や学校や会社や公共インフラや書籍も「弾圧する道具に利用される危険が大きい」わけだが。
その存在、概念自体が弾圧と不可分な全体主義は無条件でぶっ叩いても全体主義者以外は誰も損しない。
Re:ネトウヨ文化を日本の文化とかいわれてもな (スコア:0)
相手が「無条件でぶっ叩いてよい全体主義者」だと誰がどうやって「審判」するのかが問題なんです。基準が恣意的だと、「○○は全体主義国家C国の提灯記事ばかり書いている全体主義者だ。即刻排除すべきだ。」とか、逆に「△△は(C国の唱える)『歴史の反省』を行わない全体主義者だ。即刻排除すべきだ。」といった異論を排除する理屈がまかり通ってしまい、最終的には言論弾圧の道具になったり、魔女狩り状態になってしまう恐れも大きいのではないでしょうか。
#逆に言うと、全体主義者の基準が恣意的だと、「ネトウヨが朝日新聞や宮崎駿氏を叩いているのは、中国の全体主義に反対しているからだ」という理屈も成り立ってしまうのです…。
#たとえると、「堤防を大きく破損させ、将来洪水による被害者を出しかねない危険な行為」というべきでしょうか…
無論、「○○が全体主義国家C国の提灯記事ばかり書いている」ことや、「△△が『歴史の反省』を行わない」と言う問題点について批判すること自体は必要(重要)です。しかし、それは相手の意見を聞いた上での「議論」として行うべきです。そもそも、国政・民主主義において議論や意見の多様性が重要だと言われるのは、
1.異なった立場の人間がそれぞれの立場から論拠を挙げて主張を述べる
2.主張の食い違っている部分で、更に論拠を挙げて議論を闘わせる
3.「単独の立場からの主張」に含まれていた誤りを正すことが出来る
4.その結果物事の正しい理解が進む
というメカニズムが進むからでしょう(要は裁判やある意味科学の手法に似たようなものではないかと)。だからこそ、私たちもこうして議論しているのではないでしょうか?
「○○主義者」というレッテルを貼って意見そのものを圧殺する手法は、このような議論・民主主義の「検証メカニズム」を停止させてしまい、間違った主張が流布する危険を招いてしまうだけでなく、「言論統制主義者」に対する反論能力も落としてしまう為、「民主主義の緩慢な自殺」を招きかねない危険な手法なのではないかと考えます。
#ナチス主義の様に、「特定民族の虐殺」(と「民主主義制度の廃止」)を唱えている団体・思想は流石に発禁する必要があるかも知れませんが、そういった場合も飽くまで「必要悪」と考え、必要最小限の規制に済ますのが望ましいのではないかと考えます。
##そもそも、そういった「危険思想」を取り締まるのは、日本で言うと公安部のような「思想警察」の仕事になるわけですし、この点でも過大な規制拡大は危険であると考えられます。
Re: (スコア:0)
愚にも付かぬ詭弁をベラベラと
個人主義、自由主義、立憲主義、国民主権に基く憲法に対して攻撃を仕掛けた者が全体主義者だ
憲法を遵守する公人の義務を放棄しあまつさえ攻撃まで仕掛けた者には極刑あるのみ