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もうずいぶんと定着してしまったとはいえ、やはり「ら抜き言葉」は幼稚に感じられる。いやしくも編集者を名乗るのであれば、気にしておこうよ。(まあ、どうせ本人は読んでないんだろうけど)
「先生が食べられる」だと先生が何かを食べることができる(可能)なのか先生が何かに捕食される(受身)なのか先生が何かを食べることに敬意を示している(尊敬)のか区別ができない
そこを「先生が食べれる」といえばこれは可能という用法に限定され。先生には食べ物の好き嫌いがないんだなということが理解できて日本語としての精度は高まる
ら抜き言葉はこのように「受身・自発・尊敬・可能」が同じであるときに可能にだけ「ら抜き」をしているのでむしろかえって日本語を進化させていると言える
みんなもっとじゃんじゃんらを抜こう
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×見れる ○見られる (スコア:-1)
もうずいぶんと定着してしまったとはいえ、やはり「ら抜き言葉」は幼稚に感じられる。
いやしくも編集者を名乗るのであれば、気にしておこうよ。
(まあ、どうせ本人は読んでないんだろうけど)
Re:×見れる ○見られる (スコア:0)
「先生が食べられる」だと先生が何かを食べることができる(可能)なのか先生が何かに捕食される(受身)なのか先生が何かを食べることに敬意を示している(尊敬)のか区別ができない
そこを「先生が食べれる」といえばこれは可能という用法に限定され。先生には食べ物の好き嫌いがないんだなということが理解できて日本語としての精度は高まる
ら抜き言葉はこのように「受身・自発・尊敬・可能」が同じであるときに可能にだけ「ら抜き」をしているのでむしろかえって日本語を進化させていると言える
みんなもっとじゃんじゃんらを抜こう