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Wikipediaの将来は「包摂」or「削除」にしかないのだろうか? 96

ストーリー by nabeshin
自然淘汰 部門より

あるAnonymous Coward 曰く、

Wikipedia(ウィキペディア)の将来は「包摂」か「削除」かの狭間で揺れ動いているとエコノミストは論じている(本家の話題包摂の意味Wikipedia:削除の方針)。記事によると「包摂主義」はWikipediaが人類の持てる知識すべてを網羅するよう、まい進していくのを良しとし、厳しい編集基準を取り入れることは投稿意欲を鈍らせると懸念する。「削除主義」は信頼性ある情報源としての世評を高めていく為にも厳しい編集方針を持ち、取るに足らないエントリは削除し、掲載エントリを慎重に精選した方がWikipediaは成功すると主張する。Wikipediaの将来はこの「包摂」と「削除」との間の葛藤にあるとのこと。

人類の持てる知識すべてを網羅し、かつ信頼性ある情報源であることはできないのだろうか? /.J諸氏のご意見をお聞かせ願いたい。

この議論は賞味期限が切れたので、アーカイブ化されています。 新たにコメントを付けることはできません。
  • by nim (10479) on 2008年03月12日 14時11分 (#1311695)
    >人類の持てる知識すべてを網羅し、かつ信頼性ある情報源であることはできないのだろうか?

    信頼性とは何ですか?
    「Wikipediaに~記載されている」ことは「~の~という論文に~と記載されている」
    あるいは「~という本に~と記載されている」と同等に信頼性のある事実です。
    何となれば、あなたはそれを見ているのだから。

    知識とは、体験と伝聞であり、伝聞の信頼性の判断は実はきわめて主観的なものです。
    「~さんの言うことだから本当だろう」とか「テレビで言っていたから本当だろう」という訳です。
    だけども、後者が必ずしも正しくないことは、これを読む多くの方が知っていると思います。

    だから私が思うに、何かの情報が「本当かどうか」ということを考えるのは無意味で、
    「その情報に基づき、~という行動をとるか」の組み合わせこそが重要だと思います。
    胡散臭い情報でも、友人との雑談で披露するのに問題はないですし、
    国家の政策上の重要な決定を、占いに頼るのは問題大ありでしょう。

    だけれども、社会(とくに裁判だとか)が成り立っていくためにはやはり客観的に
    (というか、社会の集合的な判断としての)「どれくらい信頼できそうか」を測定する方法は必要でしょうし、
    それこそが科学であり、教育であると思います。

    ですから、「誰もが書き込める Wikipedia をどう信頼できる情報にしていくか」ではなく、
    「どうメディアリテラシ教育と科学教育の水準を向上させていくか」こそが本質的なテーマであり、
    私はその前提で Wikipedia には何でも追加できて(包摂主義)いいと思います。
    • Re:信頼性とは何か (スコア:2, すばらしい洞察)

      by sayuporn (33927) on 2008年03月12日 14時48分 (#1311715) 日記
      同じく、物事の信頼性はその歴史によると思います。
      「人類は月に行った」という事実の信頼性は、「NASAが行ったと言ってるから」では主張できません。
      そこは宇宙開発の歴史を述べ、そこから「人類は宇宙に行っててもおかしくないだろう」と読み手が演繹するしかないと思うのです。

      削除主義だと恣意的に歴史が改変されるおそれがあります。
      包摂して、読み手に判断させるべきだと思います。
      親コメント
    • by Anonymous Coward on 2008年03月12日 15時40分 (#1311748)
      でも、wikipedia内では、削除主義者の声がでかいんですよね。
      ここのところ、積極的に削除されて、つまらなくなった記事が多いと思う。
      世間一般は、なんでも書いてある方を望んでいるのに。

      大衆の望まない純粋な百科事典を卒業して、
      雑学の保存場所としてのwikipediaに変化していく方が、
      みんな幸せなんだと思うのですが。

      ま、原理主義者が支配するうちは駄目なんでしょうね。
      親コメント
    • by rascal (33552) on 2008年03月12日 14時28分 (#1311705)
      一見当り前の事だと思ってしまったけど、読めば読むほど当たり前ですね(ぉ

      最後のパラグラフを除いてほとんど同じ意見を持っていますが、なぜか結論が
      正反対でした。今まで私はタレコミの分類で言うと削除主義に近い意見でした
      が、このコメントを読んで考え方が変わりました。

      考えてみれば、/.Jにしても2chにしても「嘘を嘘と見抜けないと」と思って
      いるのに、なぜWikipediaにだけ正確である事を求めていたのか、今になって
      みると不思議でならない。
      親コメント
      • Re:信頼性とは何か (スコア:2, すばらしい洞察)

        by Anonymous Coward on 2008年03月12日 15時39分 (#1311747)
        >考えてみれば、/.Jにしても2chにしても「嘘を嘘と見抜けないと」と思って
        >いるのに、なぜWikipediaにだけ正確である事を求めていたのか、今になって
        >みると不思議でならない。

        「フリー百科事典」の看板を掲げているからに決まっているじゃないか。
        百科事典が間違ってたら問題だろ。(「広辞苑 芦屋」でググれ)
        親コメント
        • Re:信頼性とは何か (スコア:1, すばらしい洞察)

          by okky (2487) on 2008年03月12日 17時11分 (#1311811) ホームページ 日記

          百科事典が間違ってたら問題だろ

          人類の知識の中には「人はそれに関してどのように間違いうるのか」も含まれると思うが??

          # 他にも、「そのトピックでどのように萌える人達がいるのか」も。

          なので削除するのではなく、「これに関してこういう風に勘違いしている人もいるが、それはこうこうこういう形で間違っている」という説明も可能な限りつけていくべきだと思うな。
          --
          fjの教祖様
          親コメント
    • by Anonymous Coward on 2008年03月12日 14時40分 (#1311712)
      > 「Wikipediaに~記載されている」ことは「~の~という論文に~と記載されている」
      > あるいは「~という本に~と記載されている」と同等に信頼性のある事実です。
      Wikipediaの場合は、
      > 何となれば、あなたはそれを見ているのだから。
      あなたが見たものと私が見たものが異なる可能性が非常に高いというのが問題ですね。
      「確かにこの間Wikipediaで調べたんだけど」という記憶を元にWikipediaを参照したらまったく異なることが書かれてるなんてことは珍しくありません。
      #以前調べたのとは異なるというのに気づけばまだいいですけど。

      履歴を見ればいいというのはそのとおりだけど、見るタイミングによって内容が異なる百科事典というのも使いにくいなと。
      親コメント
    • 信頼できる情報にしていくかというよりは、世の中にどのような情報があるかを集約し紹介することに重きを置いていそうな気がします。

      中には正しい情報もあるでしょうし間違った情報もあるでしょう。それらの情報や意見が存在するというのは容易に示すことが出来ます。しかし、その情報の内容的な正しさを証明するのは百貨辞典のすべきことではないでしょうと。
      --
      ◆IZUMI162i6 [mailto]
      親コメント
      • by 31K (28924) on 2008年03月12日 22時16分 (#1312015)
        正しい記述と間違った記述が並列されている場合は、その"記述内容"の情報量はゼロじゃないでしょうか? そこで分かることは、その記述内容の考え方が有るということだけです。

        包摂主義でも、情報の確からしさについて重み付けがしてなければ、情報として意味がありません。

        親コメント
        • 記者が自己の信念や自身の思想に基づいて重みづけをするのであればそれは「独自研究」に該当するのではないかと思われます。
          もちろん、「このような意見は少数であり、こちらの意見の方が主流である」などの事実を明示するのは構いませんが、それは検証可能な事実を明示するだけであって、記述者が内容に対して重みづけをしているわけじゃありません。

          内容の確からしさを記述者が裁いて重みづけをするのではなく、検証可能性を持つ「確か」な事実の提示により、結果として重みの差異が発生しているように見えてくるのだと思います。

          Wikipediaの方針が完璧なものだとは自分には思えませんが、現在の割と科学的なもののように見受けられます。そして「結果として妥当性が高くなる仕組み」ではあると思います。科学的な方法で正しさを追求するという考え方が現在の方針の根底にあるならば、観察対象を蓄積するという包摂主義は比較的それに沿ったものといえましょう。そして自分には実際にその方針が割と科学的なもののように見受けられます。
          科学的な、論理的な意味の妥当性が生みだす信頼性について意味がないということはできますが、それを超えるパラダイムを示さない限りそうやって生み出されたリソースも意味を持てないでしょう。

          もちろん百科事典の項目として存在するという前提を考慮するならば上記の話とは別の話として、事実が存在するというだけでは記事として十分ではないと考えますけれども。Wikipediaは字引ではないですからね。その記事には事実だけでなくそれが記事として他の項目から独立した項目を持てるだけの情報は確かに必要だと考えます。
          --
          ◆IZUMI162i6 [mailto]
          親コメント
    • by chess (7856) on 2008年03月12日 17時46分 (#1311840)
      「信頼性」というものに対する理解は、私も近いものがあります。しかし問題としたい
      のは「信頼性」そのものの定義より、信頼性の得方、もしくは粒度でしょう。
      そもそも「信頼性」はnimさんの言われる用途に用いるツールであって、ある意味言うま
      でもないことです。

      問題はそのツールの使い勝手であり、情報にどれほどの信頼性があるか、という問題を
      個々の項目レベルにまで細分化させるなどあまりに使い勝手が悪すぎます。
      既存のメディアから情報を得ることを考えればわかるとおり、例えば、まずメディア自
      体の実績、著作者の実績、出典、関連項目、文体、項目内でも既知の情報のレベルなど、
      さまざまな階層からの「信頼性」を使ってより分けていく。情報の選別は内容以外のメ
      タ情報を使う方が容易です。

      「Wikipedia」という階層にもそういったある意味レッテルが必要です。そしてそのレッ
      テルは人々で共通であるほど使いやすい。「包摂主義」と「削除主義」で揺れ動いている
      レッテルのない現在は、非常に利用しにくいメディアと言えるのでは。
      つまり全体のレベルを定義し、情報はその定義されたレベルに合わせるべきと考えます。

      「削除主義」であれば、(異論はあるでしょうが)レベルは上がり、情報量は下がります。
      「包摂主義」は実質の「信頼性レベル」は様々かもしれませんが、上述の使い勝手より
      結局はレベルは低いものとみなさざるを得ません(その代わり情報量が増える)。

      で、どちらがいいかとなると、やはり私は吟味されたツールがほしいです。

      「包摂主義」的なものは、もう持っているからです。インターネットですが。
      親コメント
  • by ex (1307) on 2008年03月12日 14時33分 (#1311708) ホームページ 日記
    個人的には、両方やりゃいいと思うんですよね。別に両立できないものでもないでしょう。
    幾つか方法はあって、まぁそのうち個人的には有望だと思うのは、

    ・とにかく情報を集積する。信頼性に乏しい情報も。
    ・その上で、その中から一定の信頼できる要件を満たした情報には何らかの方法でタグをつける。基準は現行の方法と大差ない方法でいいと思います。
    ・あとは任意のスイッチで、「信頼できる要件を満たした情報のみの閲覧」「全ての情報の閲覧」を切り替えられるようにする

    というようなことでしょうか。それなりに単純な話だと思います。
    その上で、信頼できる情報のみを把握したい人は、信頼できる要件を満たした情報のみの閲覧をすればいいし、
    信頼できない情報も含めて全てを閲覧したい人はそうすればいい。

    #信頼できる要件を満たした情報が、すなわち真実である、とは限らない事には留意。
     ただしこれは、全ての情報に言えることでしかありません。

    正直、現在の日本語版のWikipediaの記事には、乱暴なようですが全てについて「検証可能性」のタグを貼ってしまい、
    それが満たされたものから外していく、というプロセスを踏んだ方がいいと思います。
    それほどまでに、検証可能性を完全に満たしている記事は少ないと言えると、個人的には感じています。
  • 極論を提示しているが (スコア:3, すばらしい洞察)

    by flutist (16098) on 2008年03月12日 14時08分 (#1311693)
    まぁバランスの問題でしょう。
    Linux カーネルみたいに「優しい独裁者」が各分野にいればいいんでしょうけど。
  • 問題がぶれてる (スコア:3, すばらしい洞察)

    by Anonymous Coward on 2008年03月12日 14時10分 (#1311694)
    >「削除主義」は信頼性ある情報源としての世評を高めていく為にも厳しい編集方針を持ち、取るに足らないエントリは削除し、掲載エントリを慎重に精選した方がWikipediaは成功すると主張する。

    リンク先はまだ読んでないのでこの一文だけで判断するが、「取るに足らないエントリ」を削除することでは、「信頼性」は高まらないだろう。
    削除するなら「信憑性の低いエントリ」ではないか。
    • そうは言っても、人って取るに足らないエントリを見た時に、全体の信頼性の印象を下げるけどね。
      そうなると、おのずと集まる人の性質が崩れてきて、本当の信憑性も揺らいでいくかも。
      --
      =-=-= The Inelegance(無粋な人) =-=-=
      親コメント
      • Re:問題がぶれてる (スコア:3, おもしろおかしい)

        by Alef_F (27309) on 2008年03月12日 15時11分 (#1311732)

        人って取るに足らないエントリを見た時に、全体の信頼性の印象を下げるけどね。
        Wikipediaの性質からして、ある人が取るに足らないエントリを目にするということは、その項目を検索した結果であるわけです(もしくは他のエントリからのリンクをたどったか)。
        その時に、項目自体が存在しないのと、その項目の内容が取るに足らないものだった時の印象は、どちらも全体の信頼性(というか百科事典としての質を疑わせる)を下げることにつながると思うんですけど、それらの差はどれくらいになるんでしょうかね。

        #個人的には、百科事典の各項目の記述って、大して面白いものではないのが普通だと思うけど。
        親コメント
  • と考えると、大抵の場合は普通の人がちょっと気になった事や疑問を解消するために
    使うもののように思われます。
    そういったユーザを想定するなら、極めて信頼性は高いが更新が遅いWikipediaよりも、
    信頼性はほどほどだけど活発に更新されるWikipediaのほうが好ましいのではないでしょうか。

    # どーせ学者は素人の手垢が付いたものなんて見ないでしょ?
    • by Anonymous Coward on 2008年03月12日 16時13分 (#1311771)
      まだ学者じゃないですが。

      > # どーせ学者は素人の手垢が付いたものなんて見ないでしょ?

      領域で手分けして共同研究をする場合でも、
      自分の専門以外知りません、じゃさすがに通りませんので、
      必要最低限の知識や知識にたどり着くまでのキーワードを得るのに
      使わせてもらっています。その分野の主要論文にたどり着ければ
      あとは芋づる式に。

      自分の専門領域でも、本当に全てのトピックを網羅している、などという
      自信は到底持てませんので、そういうのの補完に使ったりもします。
      親コメント
  • by UZU (35852) on 2008年03月12日 15時13分 (#1311733) 日記
    あくまでWikipedia日本語版のですが、

    ウィキペディアの目的は、信頼されるフリーな百科事典を――それも、質も量も史上最大の百科事典を創り上げることです。 [wikipedia.org]

    らしいので、質を上げるために量を犠牲にする(削除)のは目的には合わないんじゃないか。

    「とるに足らないエントリ」は内容如何によっては修正・統合などすればいいと思う。

    #ってここでいってもしゃーなんんですよね
  • パラグラフごとに (スコア:2, おもしろおかしい)

    by tarosuke (2403) <webmaster@tarosuke.net> on 2008年03月11日 13時54分 (#1311082) 日記
    出典を記載すればよし。
    # デフォルトは民明書房
  • by Anonymous Coward on 2008年03月12日 14時23分 (#1311697)
    博物誌をめざすなら包摂
    辞書を目指すなら削除

    荒俣氏曰く
    「その項目に関連するエピソードや雑学が載っているのが博物誌であり
     編纂者によって書かれている内容が違うため、
     読み物としてまた編纂して、蒐集して面白いのが博物誌」
    との事。(昔テレビで見たのでうろ覚え)

    これからも発展するには包摂しかないと思いますが。
    精選して得る「成功」というものが何を表すのかが
    思い浮かびません。
  • by Anonymous Coward on 2008年03月12日 14時34分 (#1311710)
    「これが事実だ!」「俺が正しい!」という物よりも、
    「こういう考えもあるよ?」「極一部の人の意見はこうですよ?」とかの方が、
    バザールでござーるな百科事典っぽいじゃないですか。
     
    確実な事実について知りたければネットで多方面から集めた方が信頼できますし、
    何もウィキペディアのページを見ただけで保障できる程度の信頼を高めても仕方ないです。
    事実のみを記しているウィキよりも、現在進行形で討論されていることや、超マイナーなことや、
    そんなのどうでもいいってことまで載ってるのがウィキペディアの面白いトコだと思います。
     
    「信用はできるけど、信頼はできない。」
    そんなウィキペディアを目指して欲しいです。
     
    #情報が信頼できるなんて未だに思っていたんですか?
    • by Anonymous Coward on 2008年03月12日 15時27分 (#1311738)

      事実のみを記しているウィキよりも、現在進行形で討論されていることや、超マイナーなことや、 そんなのどうでもいいってことまで載ってるのがウィキペディアの面白いトコだと思います。
      勝手に「ウィキペディア」のオレ定義を振り回さないでください。あなたのような人がウィキペディアのエントロピを急激に増大させてることに早く気づいてください。
      親コメント
  • by Anonymous Coward on 2008年03月12日 16時13分 (#1311770)
    Wikipediaの編集ノートなんか見てると削除主義者が原因の諍いが多すぎる。
    こういう人たちって教条主義的で原理主義的で官僚主義的な印象を受けて
    記事の作成や編集をしようというモチベーションが著しく阻害される。
    • by Anonymous Coward on 2008年03月12日 17時02分 (#1311806)
      逆でしょ。というか、Wikipediaの投稿に際して、全体の利益よりカタルシス、つまり「投稿の喜び」のような物を求めている人が多いのが問題なんだよね。で、愚にもつかないような意見でも平気で書き込んでしまう。自分の意見を言いたかったら自分のウェブサイトや、ここみたいな掲示板でやればいいのに、なぜか、Wikipdiaに投稿してしまうんだよね。

      些細な情報でも、検証可能性が高い物、例えば「会社の住所」なんかは、どんなに会社がマニアックだろうが、例え1ヶ月ももたずに潰れていようが、別にかまわない(その結果Wikipediaがサーバーがパンクしようとも)と思うんだけど、「その会社の製品が一世を風靡した」って言っちゃうと、これは独自研究以外の何者でもないからね。せめて、「全国のコンビニエンスストアで発売された」とか、「業種別の売り上げで○○位だった」とか、そういった硬さを避けるために「一世を風靡したと○×新聞に載っていた」っていうレトリックが認められているのに、そういう最低限のレベルにすら達していない記事が多すぎるんだよね。

      情報ってのは、必ずしも量が多い方がいいとは限らない。いらない物の最たる例が「私はこう思った」っていう感想文なんだけど、全く検証方法を示さずに、「ソースは俺」の人が多すぎるから困る。
      親コメント
    • 削除主義者の弊害は、削除しかできない事だと思います。

      削除した分、しっかりと本文を書き足すなら良いのですが
      削除主義者には、そういう努力も知識も無い。
      ただ破壊するだけなんですよ。
      親コメント
  • せっかくGFDLで公開してるんだから、削除主義のWikipediaと包摂主義のWikipediaに分けちゃえばいいのでは。
    必要ならそれぞれから貰ってくればいいんだし。

    #まあ今度は「どっちがWikipediaの名前を継ぐか」でモメそうだけど。
  • metaの記事 (スコア:1, 興味深い)

    by yukichi (12361) on 2008年03月12日 15時47分 (#1311749) ホームページ
    包摂主義 [wikimedia.org]、削除主義 [wikimedia.org]

    参考までに。
  • by kicchy (4711) on 2008年03月12日 18時51分 (#1311883)
    記事の精度を高めるとしたら記事を書く人の水準が揃っていなくてはいけません。
    その水準を揃えるということは規模が大きくなればなるほど大変になります。

    となれば、
    記事の書き手のレベルはある程度バラバラ
    という状態を仮定しなくてはいけません。
    削除派は、それにより記事のレベルが様々になっていることが
    問題だと考えているのでしょう。

    包摂派、削除派の中庸を取るとすれば/.-jpも使っている
    「モデレーション」をどのようにかして入れればいいのだと思います。
    それは記事に対する評価システムであり、そして記事に対する統計値の明示になると思います。

    記事を正しいものにより精度の高いものへ作り替える事は、
    やはり敷居が高いと思います。
    ただ、その記事の精度がどの程度か評価できる情報を付けてあげればいいのではないかと思うのです。
    何人がその記事を見て、何人が評価して、どんな評価になっているかですね。

    それの/.-jpと違う点と言えば
    いつに時点の記事に対する評価かというのが重要になってくると思います。
    それがクリアになり、荒らし評価を避ける仕組みができれば、
    何となく回るんじゃないかなぁ、と思うのです。
  • by Anonymous Coward on 2008年03月12日 22時29分 (#1312031)
    ひとつの事柄でも、見る確度や立場が違えば異なった見え方をするもの。
    科学の法則でもない限り、絶対に意見はまとまらないと、最初から割り切ることが必要じゃない?

    なら、書いた文章に筆者の立場を付箋みたいな形で本文に追加出来るといい。

    例えば、東芝のHD DVD撤退に関する項目なんかがあったら、
     ・ブルーレイ陣営のハード系関係者
     ・HD DVDのプレーヤを販売したことがあるアメリカ人店員
     ・メディアメーカ関係者
     ・経済専門の日本人大学関係者
     ・次世代DVDプレーヤを買い控えていた日本人消費者
     ・PS3ユーザのアメリカ人
     ・ウォールストリート関係のアメリカ人
    みたいに。

    それで意見がぶつかるなら、削除ではなく、併記させて残す。
    後は読んだ人が判断すればいい。
    世界中の人が納得できる唯一の説明がないことが分かれば、Wikipediaとして十分存在意義があると思う。

    # 説明が冗長になったら適宜文章をまとめたりするのは構わないし、明らかな間違いはすぐに修正すべき。
    # 問題なのは、自分と違う見え方を最初から否定し、Wikipedea上から抹殺しようとすること。
  • by the.ACount (31144) on 2008年03月17日 13時43分 (#1314400)
    Wikipedia を意識して使用したことは無い。
    単に検索して、使える情報が見つかれば利用するだけ。 それが Wikipedia ということもあるが、まだ半分の比率まで達してない。
    しかし、今現在「取るに足らない」情報が、時間が経つと重要情報になってしまうのは良くある事だが、考慮されてるのかな?
    --
    the.ACount
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UNIXはただ死んだだけでなく、本当にひどい臭いを放ち始めている -- あるソフトウェアエンジニア

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